小さな振り返りPart.6、このテーマ最終章!

  • 2020/05/30(土)

分裂した日本キックボクシング連盟の石川勝将代表側は1985年、5月、7月、9月興行を終えて新名称に移りました(6月に宮城県仙台市で仙台青葉ジム興行もありました)。


こちらが脱退した側だから止むを得ないことだったでしょう。
7月興行から全日本マーシャルアーツ連盟の残留組のジムが幾つか交流して来ました(正式加盟はこの後と思います)。その中には栄光、ミツオカ、光、東金、相模ジム等がありました。
この全日本マーシャルアーツ連盟は、旧・全日本キックが全米プロ空手システムへ転身した団体で、3年あまりの活動を経て低迷していた団体でした。1985年1月にはこの団体で長江国政さんの引退興行もあった時期です。


1985.7.19 ロングタイツを穿いたスタイル登場

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そして10月に入ると「マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟へ改名」という発表がされました。
これはややこしい団体名になったなと思いましたが、部外者としてはその後の展開を見守るしかありませんでした。
加盟者達の「マーシャルアーツの名を消したくない」という要望を聞いて残したというのが発表上の話です。
この団体を、「マーシャルアーツ」と呼んだり、「MA(エム・エー)」と呼ぶ人が増えました。
キックボクシングの歴史を詳しく知らないマスコミは、
「マーシャルアーツってなあに?キックボクシングのようなもの!」と書く週刊誌もありました。
「“ようなもの”でなくキックボクシングそのものだろうが!」という声も多かったですが、こんな現象は当初から予測できたものです。

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本家(現在のNKB側)は従来通りの「日本キックボクシング連盟」が現在まで続いています。
この1985年、こちらの日本キックボクシング連盟は、改めて各階級のチャンピオンを徐々に整えていき、11月9日には日本ライト級王座決定戦が元木浩二(伊原)vs岡内旭(=タイガー岡内/岡内)戦が行われ、6月に元木浩二が岡内に1ラウンドKO勝利しているが、この日は疑惑の判定となるも岡内旭が勝利し王座獲得。岡内旭は第2代日本ライト級チャンピオンとなりました。



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他、日本バンタム級王座決定戦は原勇(渡辺)が桜井正巳(伊原)に勝利し第2代日本バンタム級チャンピオン。



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日本フライ級タイトルマッチはチャンピオン武藤英男(伊原)が得辰男(渡辺)に勝利し初防衛。



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6月7日興行の後は9月7日に後楽園ホールでノンタイトル戦、渡辺明vs井志川雅志がメインイベントの興行があり、その後が11月9日に続いています。

こちらが元々の始まりの日本キックボクシング連盟で、バンタム級は丹代進(早川)、ライト級は長浜勇(市原)、ウェルター級は向山鉄也(ニシカワ)が初代チャンピオンとして歴代に残ります(この3名はどちらの団体にも初代チャンピオンとなります)。
この日本キックボクシング連盟は低迷期に戻ったような小規模化した団体になりましたが、焦ることのないマイペースながら、ある確信を持って興行を続けていきました。

同年10月、新名称となったマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟は、改名前の7月19日に日本ライト級チャンピオン長浜勇(市原)が三井清志郎(目黒)を倒して初防衛。



9月21日に日本バンタム級チャンピオン丹代進(早川)が鴇稔之(目黒)に判定勝利で初防衛。



MA日本となった後の11月22日に日本ウェルター級チャンピオン.向山鉄也(ニシカワ)がヤンガー舟木(仙台青葉)に判定勝利し、初防衛に成功しています。



正確にはこちらは“MA日本タイトル”ですが、どちらの連盟も“日本タイトル”を名乗っています。
翌年にはマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟は、短期ながらテレビ東京による4回の放映や、当時自民党の元自治大臣、小沢一郎氏をコミッショナーとして迎えるなど、昔のブームを取り戻すような勢いを増していきました。



最初の4団体統合時の日本キックボクシング連盟は、野口修氏の承認を経て設立された経緯がありました。
1987年には、日本キックボクシング連盟から脱退した幾つかのジムが山木敏弘氏が興した日本ムエタイ連盟に加盟し、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟から脱退した幾つかのジムが復興した全日本キックボクシング連盟(旧・岡村系)に加盟し、結局7団体に膨れ上がるも主要団体は定期興行が続き、低迷期のような先行き不透明な暗さはありませんでした。

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(堀田春樹)No.46

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